🔳べらぼう~蔦重栄華の夢噺🔳


台東区のあちらこちらに紫色のノボリ旗「蔦重の 夢が息づく 粋なまち」

以前から気になっていたので、のんびり蔦重ゆかりの地を巡ってみました。

江戸の出版プロデューサー、メディア王こと蔦屋重三郎(版元)。

現在の台東区の新吉原の地に生まれ、弱冠22歳の時に吉原入り口近くに書店「耕書堂」を開業します。

世界で愛されるジャパンアートの代表格、浮世絵や錦絵を世に広めた人物です。

当時の出版業を支えたのは木版印刷。

すでに活字を組んで印刷する活版印刷もあったそうですが、アルファベットを使うヨーロッパ言語と異なり、平仮名、カタカナ、漢字と多種類の文字を用いる日本では、活版よりも、版木に文章や絵を彫り込む木版印刷の方がコストを抑えられたとのこと。

ちなみに、現在の「TSUTAYA」(蔦屋書店)は、親類だとか直接的な関係はないようです。

しかし、創業者増田宗昭さんの祖父が営んでいた置屋の屋号が「蔦屋」で、蔦屋重三郎にあやかって名付けられたとのこと。

区報の案内を手に歩き出し、まずは、「富嶽三十六景」で有名な葛飾北斎(1760~1849)のお墓。

「勝川春朗」と名乗っていた若き日の葛飾北斎も、蔦屋重三郎の元で浮世絵を出版。

北斎は嘉永2(1849)年に亡くなり、台東区元浅草の誓教寺に埋葬されています。

寺の片隅にひっそりと。

案内されなければわからないほどこじんまりとしたお墓でしたが、私たちと同様に案内を手にしたご夫婦が幾組か。

墓石正面には北斎の画号の一つでもある「画狂老人卍」が、右側面には辞世の句「ひと魂でゆく気散じや夏の原」が刻まれていました。

次に訪ねたのは蔦屋重三郎(1750~1797)の墓。

東浅草の正法寺に埋葬され、墓碑には蔦屋重三郎の本名「喜多川柯理(からまる)」が刻まれています。

こちらは立派な石碑でした。傍らには重三郎母子顕彰碑も。

しばらく歩くと、吉原遊郭への出入り口となる吉原大門交差点「見返りの柳」

遊郭帰りの客が名残を惜しみつつ、この柳あたりで振り返ったことからこの名が付いたそうです。

S字カーブを描いている五十間道(ごじっけんみち)で日本堤から吉原遊郭の様子が見えないよう工夫されているそうです。

確かに柳のところで振り返っても、もと吉原のあった町の様子は全く見えません。

蔦屋重三郎はこの五十間道に書店「耕書堂」を開業し、世に大量の作品を出版しました。

耕書堂…古い建物の面影は全くなく、来年の放送に向けてか、看板や案内も新調されており、ちょっと残念。

さらに遊郭跡をしばらく歩くと「吉原神社」

吉原大門手前の「玄徳稲荷」、廓の四隅の「榎本稲荷」「明石稲荷」「開運稲荷」「九朗助稲荷」という5つの稲荷社が祀られています。

明治14(1881)年にこれらが合祀され創建されたのが「吉原神社」。

その後、近隣の吉原弁財天も合祀され、現在はなんと計6つの神様が祀られています。

こちらも放送前の取材でしょうか。テレビ局のカメラクルーが神社前で訪ねる人々を撮影していました。

1925年3月22日にNHKラジオから始まった放送。来年でちょうど100年を迎えます。

若い人は、テレビをほとんど観ない方も多いそうです。

100年のうち、この10年、いや5年で放送に代わる手法も劇的に変化しています。

今から10年後。「表現する。伝える。残す。」というメディアの形態はどうなっているのでしょうかね。

◆ ◆ ◆ ◆ ◆


PAGE TOP