2024年12月



  • 🔳べらぼう~蔦重栄華の夢噺🔳

    🔳べらぼう~蔦重栄華の夢噺🔳

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    台東区のあちらこちらに紫色のノボリ旗「蔦重の 夢が息づく 粋なまち」

    以前から気になっていたので、のんびり蔦重ゆかりの地を巡ってみました。

    江戸の出版プロデューサー、メディア王こと蔦屋重三郎(版元)。

    現在の台東区の新吉原の地に生まれ、弱冠22歳の時に吉原入り口近くに書店「耕書堂」を開業します。

    世界で愛されるジャパンアートの代表格、浮世絵や錦絵を世に広めた人物です。

    当時の出版業を支えたのは木版印刷。

    すでに活字を組んで印刷する活版印刷もあったそうですが、アルファベットを使うヨーロッパ言語と異なり、平仮名、カタカナ、漢字と多種類の文字を用いる日本では、活版よりも、版木に文章や絵を彫り込む木版印刷の方がコストを抑えられたとのこと。

    ちなみに、現在の「TSUTAYA」(蔦屋書店)は、親類だとか直接的な関係はないようです。

    しかし、創業者増田宗昭さんの祖父が営んでいた置屋の屋号が「蔦屋」で、蔦屋重三郎にあやかって名付けられたとのこと。

    区報の案内を手に歩き出し、まずは、「富嶽三十六景」で有名な葛飾北斎(1760~1849)のお墓。

    「勝川春朗」と名乗っていた若き日の葛飾北斎も、蔦屋重三郎の元で浮世絵を出版。

    北斎は嘉永2(1849)年に亡くなり、台東区元浅草の誓教寺に埋葬されています。

    寺の片隅にひっそりと。

    案内されなければわからないほどこじんまりとしたお墓でしたが、私たちと同様に案内を手にしたご夫婦が幾組か。

    墓石正面には北斎の画号の一つでもある「画狂老人卍」が、右側面には辞世の句「ひと魂でゆく気散じや夏の原」が刻まれていました。

    次に訪ねたのは蔦屋重三郎(1750~1797)の墓。

    東浅草の正法寺に埋葬され、墓碑には蔦屋重三郎の本名「喜多川柯理(からまる)」が刻まれています。

    こちらは立派な石碑でした。傍らには重三郎母子顕彰碑も。

    しばらく歩くと、吉原遊郭への出入り口となる吉原大門交差点「見返りの柳」

    遊郭帰りの客が名残を惜しみつつ、この柳あたりで振り返ったことからこの名が付いたそうです。

    S字カーブを描いている五十間道(ごじっけんみち)で日本堤から吉原遊郭の様子が見えないよう工夫されているそうです。

    確かに柳のところで振り返っても、もと吉原のあった町の様子は全く見えません。

    蔦屋重三郎はこの五十間道に書店「耕書堂」を開業し、世に大量の作品を出版しました。

    耕書堂…古い建物の面影は全くなく、来年の放送に向けてか、看板や案内も新調されており、ちょっと残念。

    さらに遊郭跡をしばらく歩くと「吉原神社」

    吉原大門手前の「玄徳稲荷」、廓の四隅の「榎本稲荷」「明石稲荷」「開運稲荷」「九朗助稲荷」という5つの稲荷社が祀られています。

    明治14(1881)年にこれらが合祀され創建されたのが「吉原神社」。

    その後、近隣の吉原弁財天も合祀され、現在はなんと計6つの神様が祀られています。

    こちらも放送前の取材でしょうか。テレビ局のカメラクルーが神社前で訪ねる人々を撮影していました。

    1925年3月22日にNHKラジオから始まった放送。来年でちょうど100年を迎えます。

    若い人は、テレビをほとんど観ない方も多いそうです。

    100年のうち、この10年、いや5年で放送に代わる手法も劇的に変化しています。

    今から10年後。「表現する。伝える。残す。」というメディアの形態はどうなっているのでしょうかね。

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  • 🔳 戦略的に縮む 🔳

    🔳 戦略的に縮む 🔳

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    戦略的に縮む

    「未来の年表 人口減少 日本でこれから起きること」
    「未来の年表 業界大変化 瀬戸際の日本で起きること」

    著者の河合雅司さん(作家・ジャーナリスト)は、人口減少を克服するための方策として、「戦略的に縮む」ということを提言されています。

    「戦略的に縮む」・・・7年ほど前に「未来の年表 人口減少 日本でこれから起きること」を初めて手にした当時、この言葉がなぜか私の心にストンと入ってきました。

    捨てるものは捨て、残すものは徹底的に良くする。
    集中的に資本や人材を投下する。

    これは直接的には社会やビジネスの話ですが、私自身の老後を踏まえた生活や将来に、極めて重なる点があると感じたのです。

    以後、私も老後を考え、自分の生活を段々と戦略的に小さく、コンパクトにまとめていきたいと思うようになりました。

    もちろん、元気に働くこと、家族や知人と愉しく過ごすこと、走ること、絵を描くことなど、基本的に自分が前向きになれることはできる限り続け、発展させていくつもりです。

    そんななか、今日12月7日、母の三回忌を兄弟(私は4人兄弟の3番目で男ひとり。つまり長男)夫婦やごく身近な親類で行いました。

    法要後の会食では、もう故人を偲ぶというよりは、楽しく昔を語り、お互いの近況で盛り上がるといった雰囲気。

    特に、ワンマンで手を焼いた父や、亡くなる直前まで優しかった母の話題でにぎやかに。

    法要はお寺で行いましたが、そのお寺は都内にあるビルで、お墓も4階にあります。

    ビルのお寺。お墓は4階・・・

    私は、50歳ころから仕事の都合で都内を7回引っ越ししています。

    最初に実家を離れた際には、将来、退職後は実家を継ぐつもりでした。

    しかし、10年近く、都内を転々としているうちに、様々なサービスが身近で叶う東京にすっかり馴染んでしまい・・・

    6年ほど前、父の生前に「実家じまい」をし、終の棲家を都内に求めたのでした。

    行動範囲をコンパクトに。

    戦略的に縮むことの始まりです。

    その際、同時に手をつけたものが「墓じまい」

    自分と妻の意思だけで決まる終の棲家は、財布とにらみ合いながら、クルマを手放すことと引き換えに、駅やスーパー、病院などがほど近くにあり、老後の生活に支障をきたさない場所を探しました。

    もちろん、趣味のランニングがしやすいことも私にとってはとても重要です。

    一方、夫婦だけで決断できる住居と異なり、兄弟や親戚、お墓との関係など、様々な物事が絡み合うのがお墓

    お墓を移すまでには多大な時間と労力がかかり、紆余曲折ありました。

    しかし、無事、平塚にあった墓をしまい、都内のお寺に移したのです。

    それまでは、都内から車で片道1時間半から2時間ほどかけて遠路平塚へ墓参りに出かけていました。

    現在は、自宅から電車一本で15分の駅近くのビルの中。平塚駅からも東海道線沿線上。

    雨風も暑さ寒さも心配することなく、会社の帰りや思い立ったときにいつでもお墓参りが可能です。

    将来、都内に住む娘や息子の代になっても、墓参りやその管理で困らせないよう永代供養に

    父が亡くなって6年、母も2年。

    両親が亡くなってから、自宅にある小さな仏壇も、より身近で大切なものに感じるようになりました。

    妻が朝の炊き立てのご飯を備えてくれる。
    故人の写真を眺めながらお焼香。

    亡くなった両親や私を可愛がってくれた祖母を思う気持ちも、より強くなったような気がします。

    歳をとるとはこういうことなんでしょうね。

    三回忌の法要…兄弟家族らと仲良く楽しい時間を過ごすことができました。

    父も母も喜んでくれているかな。

    行動範囲をコンパクトに。

    少しずつ、戦略的に縮んでいく。

    墓じまいについて興味のある方、悩んでいる方、下記の私のブログをご覧ください。

    「墓じまい」について考える

    終の棲家探し(マンション購入)

    ヒロの人生後半お役立ちブログ

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